ESSAI
depuis le 21 septembre 1998

    国旗と国歌

    平成16.11.14



     恐らく、法的根拠など必要ないのである。我々に必要なのは、自発的崇敬と尊崇の心だけなのだ。現場に逡巡と悶着があるからと云って、法の力で一律に押さえつけることはいとも容易いことであるが、それまでのことでもある。それは暴力にすぎない。
     日の丸が日本を表すようになった歴史的経緯は定説があるとはいえ、日本と云う国号よりも詳らかでない。だが同時に、かくも単純でかくも簡潔に日本と云う国号を図象化したものを我らは知らぬ。国の旗はまず何よりもその国を表わし、端的かつ直截に象徴するものであらねばなるまい。そこにはまた、その国のあらゆる理念と理想がこめられる。だがそれは、実のところ後から付与された場合が多い。フランスの三色旗は一般に自由平等博愛を表わすとされるが、それは根本においてあったものではなく、かの三色旗はパリ市の紋章(青と赤)にブルボン王家の白を加えたものである。王制の象徴たる百合の純白に、平等の意味をあてているのである。中華人民共和国の五星紅旗に認められる五つの星については、後年共産党指導部自らがその意味するところを変更した。穿った──それも説得力のある──見方のひとつでは、周辺蛮族(東夷南蛮北狄西戎)が偉大なる漢民族に服うというものである。
     要は、公的見解などあってなきに等しいということだ。国旗の実利的効用は他国との区別を明確にすることであるが、精神的効用はそれを母国の風土、市民、あらゆる理念の象徴として、ひとつの帰属意識をもたせることにある。我々が敬礼するのは、白地に赤い丸の染め抜かれた布切れに対してではない。その向こうにある、各人が有つ日本と云う理念に対してである。我々が国歌を斉唱するのは、その詩の逐語的解釈に同意するからではない。その調べがもたらす精神的作用──いうなれば向精神薬、麻薬である──のためである。
     君が代についてはどうか。多くの有識者たちと称する者どもが、その詩の解釈について余計な論議をなしてきた。だが解釈などいかようにもできる。極端な話、新たに制定するのでもなければ、既に一世紀の歴史を有った歌の言葉の意味など、もはや論らうに値しない。それは英国国歌が特定宗教に偏っていると、フランス国歌が煽情的だと、論難するに等しい無益かつ有害な行為である。たとえ政体が変わらずとも国情は半世紀も経てば大きく変わり得る。ではその都度国歌を制定せよと云うのだろうか? かつてのソ連のように?
     日の丸、君が代否定論者の主張は根本において同一であり、それはまた極めて即物的な近視眼的論拠による。彼らによれば日の丸はその旗印の下に行われた近隣諸国への暴虐の象徴となる。それは一面において正しい。だが、かるが故にそれを廃せよと云うのは、日本人精神構造の歪んだ表われではなかろうか?
     恐らく、大日本帝国がナチスドイツやファシストイタリアのように、新たな国旗を制定していたのなら、話はもう少し簡単に進んだであろう。しかし日の丸は明治よりこのかた、あるいは江戸よりも以前から、日本を表わすしるしとして機能してきた。今世紀(注:20世紀のこと)前半の傲慢によってどれほどの汚辱がそこにまとわりつこうとも、日の丸はやはり日本の歴史あるしるしなのである。罪の十字架を背負えと云うのではない。負の遺産を抱えた(多くの西洋国家とて抱えているのだ)ありのままの表象を受け容れよ、というのだ。一見歴史認識に富み、一見自省的な連中の主張するところはそれ、臭いものには蓋をするが如き破廉恥極まる行為なのである。否、断言しよう。彼らこそは自らの父祖が犯した過ちを歴史の彼方に葬り去って恬然と恥じぬ厚顔無恥の徒輩、近隣諸国にその薄汚れた首を差し出すべき戦後の戦争犯罪者どもなのだ。

    (本稿は1999年頃に書かれた)

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