ESSAI
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    民主主義は死んだか

    平成17.10.29



     自民の圧勝に終わった05年衆院選。一時国内のメディアが挙って民主主義の死を喧伝したが、自民の選挙戦術がアジテーションだったとすれば、メディアのこの主張もアジテーションに過ぎない。

     民主主義は死んだか。メディアや大敗した民主党には残念なことだが、民主主義は死んではいない。むしろ生き生きと輝いている。なぜなら民主主義とは市民大衆の意思を反映させるものだからだ。そうしてその市民の多くは、自民党を選んだのである。この選挙結果にも拘らず、それを無視して例えば社民党が全政権を掌握したとすれば、それこそ民主主義の死と云えるだろう。今回あくまで殺されたのは、二大政党制という、議会制民主主義の中のひとつのシステムに過ぎない。そうしてそのシステムを死に至らしめたのは、他ならぬ大敗民主党の稚拙な政策なのだ。敗者の過失を、勝者の横暴として捉えてはならない。
     また中には、小泉独裁を憂う声も聞かれるが、忘れてはならない、民主主義の父として誤解(はっきり云おう、正しく彼の著作を理解したことのある者ならば、彼はあくまで条件付きでしか民主主義を認めていなかったことに気付くであろう)されているルソオは、賢明な君主による専制政治を最高の政治形態と見なしていたことを。我々が恐れるべきは小泉独裁ではなく、自民独裁である(この違いが判らない者は、はたしてどれだけ政治を理解しているのか)。そうしてかのルソオは、愚昧な君主による専政よりも、間接民主制のほうがなお最悪だとも述べているのだ。その通り、間接民主制は、民主制の根幹たる何ものにも代行し得ないはずの政治的主権を、代議士というシロモノに代行させる矛盾したシステムなのだ。
     一部の利権政治家の中には、自民、いや小泉の戦術をマインドコントロールと非難したが、むしろ一流の政治家たるもの、マインドコントロールができなくては失格である。そのような政治家風情に、一体何が期待できようか。

     大半の市民は小泉自民を選んだ。これは小泉自民を選んであげたという以上に、投票者一人一人が小泉自民政権に責任を有するということだ。もちろんそれは無条件信任ではない。我々は(残念ながらその実効性は低いが)彼らの罷免権をも有している。ここで注意すべきは、棄権者に責任はないのか、ということだが、棄権者は誰も選ばなかったからといって、すべての政治的責任から解放されたわけではない。彼らは白紙委任をしたわけではないが、誰も選ばないという意思表示によって、他の投票者によって選ばれた代議士、政府に従うという意思をも表示したことになるのだ。従って彼らは、誰も選ばない──他人に任せる──ということによって、成立した政権に責任を有するのである。残念ながら、現行法下ではそういうことだ。誰も支持しないということは、無責任には繋がらないのである。
     では自民以外に投票した者の政治的責任は? もちろん、彼らも彼らの支持する代議士、政党の行動に責任を持つ。自民政権の意が彼らの信条に反するものならば、それを阻止する権利と責任があるのである。

     民主主義は死んだか。現時点では、それは生命力に溢れている。むしろその生死は、これからの政治動向にかかっているのだ。

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