ESSAI
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ある夜に思い

平成11.1.6

この文章は昨年末にとある知人に宛てて何気なしに書いた駄文であり、若干の修正を加えてある

 巷ではシアン化合物のウエブに対する効果について、いろいろと喧伝もしくは取りざたされてますが、国家権力に取り囲まれて生活している小生(笑うよ)にとってみれば、まあ、なるようにしかならんある種の潮流が、たまたま表層に顔出しただけのことで、言葉は個人や無知蒙昧な大衆に対しては有力な武器になりうるが、共同責任という無責任の元に無名化した組織権力に対しては、ただの石つぶて程度にでも機能すればいいほうだと思っています。気晴らしですね、一種の。
 マスコミの愚劣さは今に始まったことではないし、有識者という名の馬鹿が垂れ流す知ったか振り言葉の連想ゲームも、自分で考える人々にとっては蚊の羽音程度で害はなし、真に受ける真性馬鹿にはそれと矛盾すること言っても全て信じてくれるでしょうから、やはり顧慮するだに無駄無駄無駄。
 そのうちどこかの馬鹿の総大将が世紀末という単語で概括する時期が来て、知らぬうちに世は挙げて21世紀の到来をさも弥勒菩薩が降臨したかのように祝い騒ぎ、気づいたときには給料の半分近くが税金で消えていた、というのが卓越せるノストラダムスの預言で・・・あるわけない。
 未だに投票すれば政治に参加したのだと思っているおめでたい人々は、投票しないという消極的抵抗で気炎を上げる馬鹿よりも幾分かはましかも知れませんが、ルソーも言うように間接選挙は最悪の民主政治の一方策であって、そのような政体をとるならば、君主制の方がまだしも良い。もっとも彼は、賢明な君主のもとに統治された国家こそが最良の国家だが、それが存在し得ない以上、次善として民主制を採る、と言うのですが、真意やいかん。
 現状、衆愚政治と官僚組織の肥大化による弊害とを警告したルソーの時代とさして変わるところがないのを見るにつけ、
真の革命家は民衆の生活が良くなるようにではなく、むしろ耐え難いまでに悪化させるべきである、
 というある革命思想家の言葉を肝に銘じ、世情の混乱を横目で眺めて、あわよくんば増幅させてやろうと機会を窺うのであります。
 ああ、しかし混乱の世にさまよう大衆を、弛まぬ努力と不屈の意志で救済し、新たなる地平と太陽を示してくれる一人の傑出した英雄が現れねばならないのでしょうか。英雄は必要とされてはなりません。しかし、必要とされる時代が来るのもまた事実です。そのとき我々は、その解任が大革命の間接的契機となった蔵相ネッケルの、才気溢れる令嬢が呟いた言葉を忘れてはなりません。
ナポレオンには勝って欲しい。だが、そのあとすぐに死んで欲しい。
 至言か、はた勝手な言いぐさか。

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