ESSAI
depuis le 21 septembre 1998

    いまさらハリイ

    平成16.4.3



    書き始めてから1年以上も書き足して行く様な文章じやねエよなア

    何を勘違いしてか今更ハリイ・ポツタアに嵌まりました。つうか俳優に。勿論だから、映画しか観ていません。しかも第1作目(平成15年1月時点)。わたくし大ヒツトした作品は意地でも観たくない(読みたくない)つつう菜園すずみたいな根性の持ち主ですので(現に千と何とかは観ず終い)、人からDVD押し貸しでもされなきや未来永劫観ることは無かつたんですが、押し貸しされちやつたんでツイ観て了いました。まア大体押し貸しされて暫く放つて置いた物程嵌まり易いんだよナ俺。0083もそうだつたし。
    尤も、嵌まつたとは云え、本は読む気に成れません。恐らく其れがわたくしの精一杯の妥協点なんです。越えちや不可ない一線つて奴ネ。映画の方だつて、エムマ・ワトスンが良い感じに大人になつて来ちやつたんで、3作目の映画(あるとして)を観るかどうかは微妙な所です。頼みの綱はダニエル君丈です。其処も陥落したらアラン・リツクマンとマギイ・スミスしか残りません。割と人気の高いルウパアト君には悪いが…
    所で本は読まないと云い乍ら、鳥渡丈抂げてしまいました。と云うのも、趣味で西洋将棋を指すので、終盤のゲエムが気になつて為方が無かつたんですが、局面が具体的には何うなつてんだろうと、其処ん所丈読んで見た所、此が全く手掛かりには成りません。映画を観て駒の位置を同定するしかありません。
    イヤ其れにしても、子供向けだからなのかどうか知らんが、平板つうか凡々とした文章で吃驚しましたネ。モウいつそ原文も見てみたいけれど、名文はベストセラアの条件では無い、と云う確信が又一層鞏固な物に成りました。こんな調子で延々やられちや洗脳でもされん限り辛いよなア。翻訳なら青柳瑞穂や堀口大学等、原文ならポオやアポリネエル等に薫陶を受けて来た文学青年崩れと致しましては、到底許せない所業なんであります。
    とは云う物の、映画の方は第2作目も観ました。本当は映画館へすら行く心算だつたんですが(お莫迦)、折からの流感大流行で密室が怖いわたくし結局行けず終い。其れでもDVD特別版をセエル前日に入手する所からしてモウ末期だと自負して居るのですがドウですか。
    巷間ハリポタ映画が大ヒツトする様な現況は可笑しい、映画としての出来は凡作なのに、猫も杓子も宣伝と前評判丈で見に行つて居る、と批評されて居りますが、良いじやん其れが日本人の民族性なんだから、とわたくしは思います。其れに又、前段で触れた様に名文必ずしもベストセラアならず、つまり、動員数と映画の出来もあんま、つうか殆ど関係無いんであります。
    わたくしだつてあの映画は2本とも映画史上に残る素晴らしい作品だとは思つてません。一歩退いて眺めれば見栄え丈のダラダラした益体も無い作品です。良いんです。屑みたいな映画だつて。キヤラしか見てないんだから。キヤラを楽しむんだから、在り来たりの特効と在り来たりの話運びの方が「落ち着いて」ハラハラドキドキ出来るんです。作品が所謂消費娯楽、浪費の為の浪費でしか無いとしても、恥じることは無いんです。其れは浪費する事自体が目的として存在する作品なのだから。
    尤も、こう云う考え方自体が既に功利主義的であり、資本主義とは功利主義の究極形態であると喝破したのはジヨオジ・バトル、つうと訣が判らんが、フランス語読みでジヨルジユ・バタイユであります。其のバタイユ宣いけらく、20世紀の病は万事が功利主義的つまり資本主義式に処理され判断される所に在ると云う訣でありますが、まア其れは其れとして、唯愉しむ丈で何が悪いつつう事です。そんで以て愉しみ方は十人十色千差万別つちふ訣であり、映画の愉しみ方に王道など無いのでありますから、すんげえ下らないお話のごつつしよぼい映画でも、お目当ての俳優が出てればモウ其れ丈で98パアセントおつけいなのです。こんな事を云うと直ぐに俳優で観る可きなのか、原作で観る可きなのか、脚本で観る可きなのか、監督で観る可きなのか、はたまた全てを勘案して観る可きなのか、何れが正しい映画の鑑賞方法なのか、等と凄む輩が巷には居るんでありますが、勿論、其の何れもが正しい映画の観方なのであります。何れか1つに絞ろうとする議論は偏狭な映画論に終始するか、然なくば酒の肴なのであるのでありますのです。
    其れにしても初日で700万部超。日本風に計算すると最低でも印税10パアセント強の30億円位つつう事ですか。ライセンス料がアレ位と云うのは知つていましたが、ボロい!等と鬼太郎みたいな顔で叫んで仕舞いそうです。

    まるで関係無いのですが、今日びの日本人が書く文章は本当なつちよらんのでどたまに来ます。特に目に付くのが漢字の濫用と誤用。漏れとか厨房とかの2ちやん用語は只の符牒だからドウでも良いとして、ワアプロの普及から此の方キイボオドを叩けば適当に候補が出て来る上に、最近は候補一覧に字義も表示されるから、知つた心算になつて普段使わない漢字を多用したり、用法を良く確かめも為ずに確定(投稿とか表示とか)する大馬鹿者が多い様に感じるのです。しかも良識と常識の番兵である可き新聞からして既に此の種の無様な間違いに蚕食されて居るのですからもう。ウンザリする程見て来た此の手の誤謬で意外に多いのが「以外に多い」。因みに胎貝に多いのはタニシの仲間で、遺骸に多いのは死斑でせうかねエ。巫山戯るな愚者共が。亡国の徒輩たア正にお前等の事だ。全く以て書けない漢字なんぞ使いなさんナ。折角平安朝の貴人等が平仮名を発明して下すつたのだから、有り難く押し頂いて平仮名を使え、と思うのはカルシウムが足りないからですか。尚此の文は態と漢字を多用して見ました。其れから地文とは無関係だが戦前風に音引きも排除。

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Copyright(C)2004 Yoshitane Takanashi