ESSAI
depuis le 21 septembre 1998


俺ニ関スル寝言

fuente NO.11 97.8号掲載

 駅前の雑踏の中を歩いているとき、あるいは深更の机に向かって真っ白な反古紙に黒ぐろとしたインクの痕をつけているとき、ふと思うことがある。「この存在は何か?」
 どうやら「俺」のことを指しているらしい。生き物である。つまり、ナマモノだ。云ってみれば血の一杯詰まったビニール袋である。いや、ホイジンガに倣えば汚物袋か。奇妙なことに、そのとき俺は、俺という物体をどこからか見下ろしている。眺めている。
 なるほど、これが俺の名前を与えられ、俺という人格を同定される生物なのだな。それにしてもこいつは何故動いているのだろう。それにしても何故こいつは俺であって奴ではないのだろう。それにしても----何故こいつはものを考えているのだろう?
 俺は、たった今「俺は」と書いた俺の右の手を見やりながら考える。この手は確かに先ほど俺はと書いた。その手に握られた万年筆を使って、5本の指と手首とをそれとは判らぬよう幽かに連動させて、俺はと書いた。しかし俺は、いかしにして俺はと書くかこの右手に指示してはいない。確かに俺は俺はと書こうと思ったが、そのために右手をどう動かして、まず中央やや左寄りから30度角くらいの短い線を引き、次にその線分のまん中あたりから垂直に近く下方向に向かう線を引くべきか、などと考えたわけではない。それは俺が俺という文字を幾度となくこの右手に書かせてきた、気の遠くなる営為の賜物なのだろうか。そうかも知れない。それを人は学習と呼ぶ。しかし、俺はある日驚愕する、俺の右手とそれに直截間接に連結連動する全ての筋肉と神経の忍耐強さと記憶力とに。かくまでに俺の肉体を馴致せしめた俺とは、一体何者なのか。
 俺は再び俺の肉体を見下ろして考える。この複雑にして脆弱なる有機物を支配し、動かす俺とは何か? 先ほどからしゃにむに右手を動かして、鳥の足跡のような図形を記し続けるこの肉体の支配者、俺という存在は何か?
 そして、一筋の悪寒が俺の肉体の背を走り抜ける。やはりこの肉体が朽ち果てるか破壊され尽くされたとき、俺も消滅するのであろうか?
 俺はそこで俺の存続手段について考える。
 世にクローン工学というものがある。おそらくこの神をも畏れぬ技術が極まれば、俺と全く同じ構造の物体もしくは生命体を創り出せるであろう。しかしそれは俺ではない。丁度俺の傍らに寝ている女が俺ではないのと同じように、俺と同じ記憶、同じ行動原理、同じ思考過程を有たぬ限り、それはどこまでも俺に似ていようが、決して俺ではない。せいぜい双子の片われである。しかし----しかしもしそいつが俺と同じ記憶、同じ思考を有し、俺と全く同じ、人格という摩訶不思議なモノをコピーすることができるとしたら、一体オリジナルの俺が俺なのか、コピーの俺が俺なのか?
 オリジナルの俺が死んだ瞬間、それまでの俺の全ての記憶と人格と行動パターンがコピーの俺に移植されて、彼なる俺が動き始めたとしよう。確かに、俺はコピーの中に存続する。他人から見てもコピーの俺はオリジナルの俺と変わらぬ筈だ。しかしそれは本当に俺なのだろうか? 傍らに眠る女は、コピーの俺が俺であることに寸毫の疑いも抱かぬだろう。人間がその文字通りにヒトとヒトとの関係の中に存在するとすれば、つまり他人の認識の中にのみ、個々の人間存在があるとすれば、コピーとオリジナルの俺の間には、何らの差異もない。また、俺なる存在が他人の認識に依拠せず、崇高にして孤独な独立を保っているものだとしても、それが完璧にコピーされた俺と、オリジナルの俺との間にも、やはり差異はないに違いあるまい。
 だが、だが今この文章を書いている俺は、オリジナルの俺が死んだ瞬間に、もはや存在しなくなるのではなかろうか。なるほど、オリジナルの俺の死と同時にコピーの俺が生を享け、恰も俺はオリジナルの俺の体からコピーの俺の体へ転成したかのように見えるだろう。少なくともそれを目撃した人々にとっては、そう見えてもおかしくはない。だが、そこにいるのはコピーの俺であって、オリジナルの俺ではもはやない。コピーの俺はそれまでの俺の経験と記憶とを有して、それからも俺として何の疑いもなく生き続けるであろう。奴は、自分がコピーであるということすら知らずに生きてゆけることだろう。おそらくそうして俺は可能な限り永遠に生き続けてゆくことができるであろう。しかし待ってくれ。元々の俺は、コピーに全てを与えた俺は、やはり最初の死の時点で永久に死んでしまったのではないのか? 今ここに疑問符を書きつけた俺という意識存在は、結局のところ未来永劫生きてゆくことができないのではないのか? とどのつまり、俺は俺の今の肉体と頒かち難く結びついて、決して離れられないのではなかろうか?
 俺は三度考える。俺とは何か? 俺とは脳細胞の中に無数にきらめきたゆとう電気の奔流が作り出す、一種の幻覚である。少なくとも、魂というものをそこに措定しない限りは、一つの電気現象の高次の産物である。そしてそれが、俺の肉体という物理的に有限な存在によって扼されている以上、俺に抗うすべはない。ある賢人は、肉体を魂の牢獄だと云った。牢獄であれば、あるいはそこから解き放たれることもあるだろう。だが、魂の存在説に与しない俺にとって、俺とは俺の肉体に囲われた囚われ人なんかではなく、その牢獄によって囲われた空間そのものなのである。天地と四方とを囲まれて甫めて存在するその空間は、当然にも囲いがなくなると同時にその存在を停止する。俺という意識存在は、正にそのようなものなのではなかろうか? 本当にそうなのだろうか?





仙台玉虫塗
\70,000.-
大橋堂
 俺はついにペンを擱く。乳白色に輝くその万年筆は、多分俺より長く生きるだろう。ひょっとすると、俺の完全なるコピーの俺が使い続けてゆくかも知れない。あるとき、何代目かの俺は、その幾星霜を閲した万年筆に向かって、こう語りかけることがあるだろう。随分と長い間、お前と一緒に生きてきたな。いや、そうではない。そうではないのだ。その万年筆の伴侶たる俺は、初めて君を見初めた俺ではないのだよ……
 そして俺は、幾度目かの自問を繰り返す。俺とは何か? もはや何がなんだか判らない。


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Copyright(C)1998 Yoshitane Takanashi