ESSAI
depuis le 21 septembre 1998


A.D.P.

fuente NO.11 97.8号掲載

 昨年末に購入したものの、半年以上も放っておいたモンブランの限定品、アレクサンドル・デュマを引っぱり出してきて、これを書いています。そのせいかいつになく文字が大きい上に、馴らしていないもんだからよくかすれているでしょう? と云っても中谷編集長しか判らないか。
 アレクサンドル・デュマ。ご存知昨秋に小デュマと署名をまちがえて回収騒ぎを起こした曰くつきのシロモノですが、もちろんわたくしが使っているのは大デュマの方です。希少価値には余り興味がないので小デュマの方をゆずってくれとは申しませんが、なんかこう書くと欲しがっているようでもあるな。
 大デュマ、あるいはデュマ・ペール。フランス文学史上に燦然と輝くこの名は、日本でも「三銃士」「モンテ・クリスト伯」等の小説で馴染み深いことでしょう。一方、このロマン派の巨匠に比べてその息子デュマ・フィスは余り目立たない。デュマ・フィス、というのはDumas fils、つまり息子の方のデュマという意味です。因みに娘はフィーユと云います。パイ生地を幾重にも積み重ねてクリームやチョコレートで包んだフランス菓子を、ミル・フィーユと日本では呼んでいますが、この発音だと「千人の娘」になってしまって何がなんだかよく判らない。正しくはミル・フイユ(千枚の葉っぱ)で、これだと納得できますね。
 話がとんだ。デュマ・フィスです。オペラファンの人だったら、もしかすると彼を知っているかも知れません。そう、ヴェルディのオペラ「椿姫」こそは小デュマの作品をベースにしているのです。小デュマはこのほかにも劇作を多くしていますが、この演劇という分野において忘れてはならないのが、彼の父、大デュマなのです。アレクサンドル・デュマ(父=ペール)はその沢山の小説よりも、演劇において文学史上に名を留むべき巨匠でした。ヴィクトル・ユゴーの「エルナニ」がロマン派の古典派に対する輝かしい勝利をもたらしたあと(1830年)、大デュマの「アントニー」が大衆の支持をかちえて、世は決定的にロマン主義時代に突入したのです。
 さて、モンブラン・アレクサンドル・デュマですが、これがまた大振りで手の小さいわたくしにとって実は扱いにくい。デザインを、ひょっとすると書き味より優先する傾向のあるわたくしです。別に後悔しちゃあいないんですが、重いのだけは何ともならん。というワケで、キャップは外したまま使ってます(はずさなきゃ書けんだろう、という突っ込みは反則ですよ)。このキャップが実は不満のあるところでして、大体モンブランの限定品は年を追うごとに装飾過剰になってゆくきらいがある。リングのフェザー、これはどうもいただけない。クリップのエペ。三銃士がモチーフなんだろうが、何とかしてくれと云いたいくらいに調和を缺いている。どこのデザイナさんを使ってるのか知りませんが、やっぱりドイツは質実剛健が一番だね、と偏見込みで云いたくもならあな。そうでなくともダンヒル・グループ(このグループもカルティエ・グループと合併しましたね)の傘下にあるモンブラン、ちょっとは洗練されて欲しいもの。
 何だか不満だらけのようですが、唯一のお気に入りにして購入動機となった一点こそはペン先の白百合。フランス王家の徴である百合の花は、王家の血で血を洗う永い闘争と、何より剣尖に似た図案のために、疾に真紅に彩られているかも知れませんが、今なおその白い輝きを三色旗の中央に留めて、時に「自由・平等・博愛」の「平等」に擬せられているのだから、皮肉と云うべきか何というか。この白百合の紋は1801年までイングランド国王の紋章の中に入っていましたが、その後姿を消しました。どうあがいても失地王の時代に失った大陸の故地を、奪還することは叶わぬとみてとったのでしょうか? 時恰もコルシカの英雄が革命に揺れるフランスを強力にまとめあげていった19世紀最初の年、そしてその一年後、アレクサンドル・デュマはこの世に生を享けたのでした。

right:
Alexandre Dumas Pere
\98,000.-
fountain pen
MontBlanc(R)

left:
Chinoise, with widing up key
\70,000.-
TISSOT



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