ESSAI
depuis le 21 septembre 1998


モンブランにかこつけて…

fuente NO.17 '99.8号掲載

 銀座という町は、わたくしにとって浅草と同じように、何かしら不図、ゆったりとした気持ちにさせてくれるところである。浅草でゆったりとする、というのも変な話かも知れないが、あの百年昔から変わらぬ雑踏の中に身を委ねていると、唐突に全ての物音が途絶えて、そこに在る町と人と、そこに在るべき自分との関係があやふやになる。それは、新宿や池袋のただ中で感じる虚脱感とは異質の、ひとつの孤独である。神谷バーの黒い卓子を前にして、くすりのような電気ブランをひっかけてから表に出ると、花電車か提灯行列かに出くわしそうになる。パナマを忘れたかとふり返れば、赤い煉瓦の十二階がそこに見えぬことを訝しむことになる。
 講釈師 見て来たように 嘘をいい
 もちろん、銀座は浅草とは違う。そこには伝法院も雷門もなく、ただ服部時計台があるだけである。少し注意して歩けば、交詢社の重厚なファサードを見つけることもできようが、あのルパンも今は何の変哲もないビルの谷間に埋もれて、擦り減ったカウンターと高椅子とが、かつてここに文化があったことを偲ばせるのみだ。
 銀座の空から架線が消えて、既に久しい。もはやよそゆきの服を着て中央通りの百貨店を巡ったあとは、資生堂パーラーでお茶を飲むという時代ではなくなった。ウィリアム・クラインが四丁目の交差点で、踊るように撮り続けた町も人も、今の銀座には見あたらない。
 その交差点にほど近い鳩居堂が、古い日本を象徴する文房具店であるとするならば、伊東屋は西洋の、それも舶来という言葉のフィルターを通して変質した国々を表す文房具の店である。往事の姿は知る由もないが、わたくしは未だにそのような偏見をもって、あの赤いクリップを見るたびに眉をひそめる。だが、日露戦役の年に創業した老舗ではある。わたくしは一応の礼儀をもって、舶来の文房具をまずここで知ることにしている。そこで購入することは、余りないにしてもだ。
 今年のはじめ、暫く遠去かっていたその伊東屋に行き、奇妙なものを見つけてしまった。大体にして百貨店の万年筆売り場というものは、ショップという英語よりも、ブティークなる仏語が似合う華美虚飾の世界に彩られることが多いが、この伊東屋中二階も正にブティークであって、その点、銀座という言葉が醸し出す幻想を、体現していると云えなくもない。だが、いかに舶来の筆記用具が、紳士淑女以外の庶衆を峻厳に拒み続ける、ある種の神々しさを身にまとっているとしても、半ばファッションと化した万年筆とその売り場の傾向には、聊か落胆と失望を禁じ得ぬ。店頭の雰囲気からすれば、御徒町の雑然とした喧騒の中に、そこだけぽつんと浮いているかのような小さな店先の方が、まだしも良い。
 伊東屋で見つけた奇妙なものとは、いつになく派手さを増したモンブランのディスプレイの中に収まった、どこか違うマイスターシュテュック一四九であった。マイスターシュテュック。ドイツではごくありふれたこの普通名詞を、殊ここ日本において、ただひとつのものを連想させるまでになった名品の、最初の仕様がこの世に現れてから、四分の三世紀が経ってしまったということだ。その世界七十五本だか二千本弱だかの限定品は、さすがに手に負えた代物ではないが、一年間は生産するという通常の記念限定版(これは少々変な日本語だ)は、四十年近くもその基本的な容姿を変えぬ一四九と少しだけ見た目が異なるほかは、九〇年代後半に入ってからの、あのモンブランの限定品について回るぎとぎとしたしつこさがない分、気に入った。
 無論、仔細にながめれば、クリップリングの上に怪体な金帯と石ころが嵌まっているし、ペン先の装飾もひとつかふたつ前の一四九の仕様に較べて、自己主張が強過ぎる。しかしながら、その一瞥した限りの外観、何よりも基本的な構成において、それは紛うかたなき一四九である。慾を云えば七十五周年を謳う以上、ペリカンのように最初期のリメイクか、せめて一三〇番台の復刻であるべきだが、ダンヒル・グループの販売宣伝戦略を忖度するまでもなく、それはそれで良しとしよう。
 いずれにせよ、七十五周年の一四九は、丁度中字のペン先が恋しくなったわたくしの手許に、それから程なくしてやって来た。相変わらず舶来のペン先というものは、彼我の紙質の違いによるものなのか、元来が大雑把なのか、それともここに来てモンブランの品質管理も地に墜ちたのか、紙になじまず難儀する。今に到るまで使い始めから滑らかな書き味をみせてくれた舶来品は、パーカーのソネット・フジェエルくらいなものである。どのみち、ある程度のエイジングは必要である。そう達観、あるいは諦観したわたくしは、ひとつひとつ細かい調整にかけるのも癪に障ると許りに、ほぼ毎夜の如く反古紙の裏に他愛もない文章を連ねている次第だ。もとより、それで効率良くエイジングできるとは考えていない。人によっては、得体の知れぬ反古紙を使うとは不届千万、と叱責もされよう。だが、生憎と紙まで揃えている余裕はなく、且つまた、日毎膨大な量の反古紙が手に入る環境にある以上、これを利用せぬ手はあるまい。凡そ原稿の下書きから伝言、備忘録、はてはつまらぬ計算にまでかり出されて、一四九のエイジングは遂行される。
 万年筆は書くための道具である。さよう、たとえ生まれ落ちたその日から、美術工芸骨董品となろうとも、まず実用品なのである。腫れ物を扱うが如くに愛でるのも悪くはないが、それだけでは少し可哀想ではないかと、わたくしは思うわけだ。
 もちろん、もはや書くものとしての機能を喪った万年筆を、蒐めて愉しむことに意味はない、と云うつもりもない。わたくしの鍾愛する鎌倉のサディスト・リヴレスクは、死んだ時計に美を見ていた。彼は自分の使う万年筆には、殊更興味を有たなかったようだが、それは単に、彼の審美眼に適う万年筆に出くわさなかった、ということだけなのかも知れぬ。主なき彼の机の上には、三十年余り使い続けて来たというパーカー五一が、今でも転がっているはずである。

Meisterstueck 149
75th Anniversary model
Montblanc(R)



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