F1ファン(オタク)のタブー


    不思議なことに、日本のF1マニアの間には、触れてはならない、つうかけなすことはもちろん、批判することすら許されない3つのタブーがある。これがF1観戦自体を庶民から遠ざけ、結果的にF1ファンをますます異質でろくでもない存在たらしめている原因でもあるのだが、当の本人たちはまるで気がついていないのだから、ほんとに終末的だ。
    そのタブーとはもちろん、1にセナ、2にホンダ、3にビルヌーブのことである。

    セナ
    アイルトンはF1マニア(オタク)にとって最大のタブーである。この音速の貴公子を否定的に扱うことは、たとえそれが客観的な事実についてであっても、決してやってはならない。もしはずみでそんなことをしでかしてしまったら、「そんなところも(が)好きだ」とすかさずフォローしておくとよい。さもなくばあなたは未来永劫F1主流派から排斥されることだろう。もちろん、非主流派であることが悪いわけではないし、往々にして主流派ほど度し難い集団もないので、むしろ非主流派であることを幸いと受け止めた方がいいかもしれない。
    実際のところ、一発の速さのみならず、わがままでお子さまなところもミハエル・シューマッハを凌駕するアイルトンに唯一足りなかったのは、側聞する限り、努力するということではなかったか。努力するということは、稚拙なくるまでも速く走る、ということではない。その稚拙なくるまを、コンスタントに勝利を狙えるくるまに熟成していく、云い換えれば開発していくということであり、セットアップを極限まで煮詰めていくとか、細部のファインチューニングだけでもいいが、それを的確にエンジニアに伝えること――そしてエンジニアがそれを次のバージョンアップにつなげることができるようにフィードバックすること――ができるということなのである。ただ駄馬を速く走らせるだけなら、極論、多少の才能を持っていれば誰だってできるのだ。アイルトンがプロフェッサーでない理由はそこにもある。彼はコース上にないときは、自らの搭乗するマシンを速くすることではなく、ただ速いマシンを(政治的に)手に入れることだけに時間を費やし、その結果としてタンブレロコーナーに散華した。皮肉ではなく、天賦の才能だけで駆け抜けたからこそ、まさに音速の貴公子という名がふさわしいとは思わないか。
    セナファンにとって最大の幸せは、アイルトンがもうこの世に存在しないということである。長く走り続ければそれだけ失態を演じる回数も増える。気力体力はある時点から歳とともに衰えていく。しかし彼はその衰えた姿を衆目に晒す前に、恐らく彼自身のミスではない、つまりそれゆえ「悲劇的な」事故によって、この世を去った。セナファンは彼の勇姿を見ることができなくなった代わりに、彼の醜態を見てしまうこともなくなったのだ。ミハエルが狡猾なことをしでかすたびに、クルサードがばかなことをやらかすたびに、アンチは嬉々としてあげつらいこき下ろしにかかる。しかし彼らのアイルトンは「もはや」失敗しない。するわけがないのだ、死んでいるのだから。
    狂信的なセナファンは反論するだろう。セナが失敗するはずがない。そうかもしれない。だが、彼が死ぬまでに見せた実に他愛のないミスや醜態が、94年以降も見られなかったとは考えられない。さらにまたセナファンにとって幸いなことに、もし彼が生き延びていたとして、致命的な失敗をしでかしたかどうかなど誰にも、そしてかつ永久に判らないのである。永久に判らないことである以上、彼らは「失敗するはずがない」という稚拙な主張を繰り返すことができるのであり、「失敗したかもしれない」という可能性を100%否定する愚挙にすら出られるのだ。
    かような信者たちによって祭り上げられたアイルトン・セナ。もはや彼の業績を色眼鏡なしで見ることは誰にもできない。というよりも、誰もが色眼鏡を通して見ているために、「色眼鏡をかけているのではないか?」と疑問を呈することすら許されない。なんたることか、F1界のファシズムは生けるエクレストンではなく、死せるセナによって成立しているのである。

    ホンダ
    日本のモーターレーシングマインドはホンダと共に培われ、花開いてきた。それは疑い得ない。所詮は黄色人種とばかにされ、あるいはスポーツ黄禍論がひそやかに唱えられ、レギュレーション変改を含む陰ひなたの妨害を受けながらも、彼らは勝利することでそれを乗り越え、令名を高めていった。とりわけ第2期F1活動の成果は、日本の自動車産業が安くて高性能なくるまを売るだけのものではないことを知らしめたとも云えた。だが問題は、第3期の活動である。
    そもそもの始まりからビジョンがなかった。いや、首脳陣にはあったのかもしれないが、それが周囲に伝わっていない以上、ないのと同じことだ。インタビューなどで間抜けなスタッフがときどき語っているが、勝利すること自体はビジョンでもなんでもない。その勝利を得るための思想がないのだ。思想がなければ提唱される方向性は一貫せず、組織全体が共有すべき統一された方向性がなければ、現場が迷走するのは当然のことだ。しかも交渉下手、駆け引き下手が次々に悪影響を及ぼし、参戦からはや数年、もうにっちもさっちもいかない状態に陥ってしまった。政令は二途に出、朝令暮改は当たり前。チームとの交渉ひとつとってもいつも先手をとられて右往左往し、苦しい言い訳と端から見ても根拠薄弱な希望的観測ばかりを弄して密かな失笑を買う。
    レース屋としてのホンダは終局を迎えつつあるのではないか。CART、IRLでもどこかの企業の後塵を拝し、Fポンはお山の大将でしかなく、今はせいぜいバイクレース屋としての余生を送るのみだ。もちろん自動車会社としてのホンダは、依然、大企業である。これからもきっと大企業だろう。だがしかし、もはや巨大自動車会社でしかないのが実態でもある。それは一介のレース屋が世界企業に成り上がってしまった悲劇でもあり、スポーツマインドという得体の知れない神様にすがって、スポーツビジネスにおける汚いテクニックを磨いてこなかったうぶな日本人の限界を晒した結果でもある。
    いまのホンダに必要なのは、すべてを白紙に戻す蛮勇である。過去の栄光を知るすべての人間──経営陣、社員はむろん、ユーザも含めて──を放逐し、4輪レース屋としては新生を図ることだ。トヨタの参戦姿勢が色々な意味で彼らの教訓となるだろう。逆にそこから何も得ることができなかったとすれば、ホンダの次の挑戦も失敗に終わるであろう。
    われわれとしてはホンダが、これ以上傷口を広げる前に自ら落とし前をつけることを願って止まない。なんとなればホンダF1活動の現状は、ガ島攻防戦に敗退した直後の日本軍と同じ状態にあるような気がしてならないのである。さあ、いまこそさらばホンダと云って、いつか彼らが第4期に挑戦してくるのを待とうではないか?

    ビルヌーブ
    ここで云うビルヌーブとはもちろん、ジャックのことである。まあ、はっきり云ってここらへんはもうどうでもいいんだけれども、雑誌や番組、掲示板やらなんゃらで、いまだにジャック待望論を吐いている徒輩を見るにつけ、いったいこの、ジルの息子という取り柄しかないメガネハゲの、どこをどう見ればそんな暴論を導き出せるものか、そこらのジャックファンとやらをとっつかまえて、小一時間といわず96時間くらい寝かせずに問いつめてみたい。
    確かに父ジルは魅力的なレーサーだったかもしれないし、インディチャンプから鳴り物入りでF1に乗り込んできた頃のジャックは、とんがっててしかも結果を残せる、格好いいレーサーだったかもしれない。しかし、過去はもはや過去でしかない。風聞ではあるがクレイグ・ポラックの口車と巨額のサラリーに目が眩み、新興BARに移籍したのはいいけれど、まるで結果を残せていない元チャンピオン。へレスの一件以来、内心で小馬鹿にしてりゃいいはずのシューマッハが着実に結果を積み上げていく一方で、まるで進歩のない自分の環境に苛立って、ミハエルのみならずチームメイトまでをもちくちく揶揄するしかもはや能がない元チャンピオン。ジャックの悲惨なところは、同じようにあけすけにものを云うと思われているエディー(アーバイン。場合によってはジョーダンも)とは違い、その言辞にウィットのかけらもない点だ。ついでに云えば、同じフランスの血を引くジャン・トッドには、狡猾と言っていいくらい人を煙に巻く得意技があるのに、ジャックにはそれすらもない。
    欲の皮を突っ張らせ、天賦の才に溺れて努力することを知らず、努力するライバルや同僚をこき下ろすことでしか溜飲を下げられない、落ち目の元チャンプ。いったい、こんな三文小説の主人公にすらなりゃしない人間に、どれだけの価値があるというのだ? 見苦しい引き際と非難されたデイモンの末期のほうが、まだしもましに見えてしまうほどに醜く、むしろ憐れみすら誘ってしまいかねない。そういえばこの2人、ともに当時最強のウイリアムズに乗ってチャンピオンを取ったドライバーだったな。こいつら結局のところ、くるまのおかげで勝っただけの二流ドライバーってことなのか。
    とりあえず、今のBARにジャックは要らないし、F1サーカスにだって不必要だろう。口数の多さだけで不当にも同一キャラ扱いされている、アーバインのほうがずうっと建設的で、しかもスパイスのきいた言辞を吐くし、ちょっと歳食ってるとはいえ彼と入れ替えた方が(ギャラも少ないし)F1の未来は明るいと思うがあなたはどうか。そしてなによりも、日本の大企業のはしくれであるはずのホンダが、いつまでもこのヒステリー男にかかずらわって男前を下げないようにと、おれは切実に願っているのだが。

    総括
    あなたが間違ってF1オタクの集団のなかに紛れ込んでしまったばあい、次のポイントを押さえて彼らとコミュニケートすれば、まず村八分にされたり、いわれのない攻撃を受けずにすむだろう。
    ・史上最高(最強・最速)のF1パイロットはアイルトン・セナである。ミハエル・シューマッハはライバルのいないときに稼いでるだけで、彼の勝利には価値がない。
    ・アイルトンは記憶に残るレーサーだったが、ミハエルは記録に残るだけのレーサーだ。
    ・純正日本レーシングチームはホンダ(だけ)である。トヨタは商業主義の多国籍チームにすぎず、そこにジャパンスピリットは存在しない。
    ・オールホンダチームとジャック・ビルヌーブの組み合わせが必ず結果(表彰台・優勝・チャンピオン)をもたらすだろう。
    ・F1放送のオープニング曲はTRUTHに限る。
    ・フジテレビ(地上波)はF1ファンをちゃんと見ていない。
    あとは上記を軸にこまかい史料の裏付け・肉付けをしていけば、あなたはもう立派な正統派F1ファン(つまり取り返しのつかないオタク)になっているはずだ。
    なに、それでもわかんねえやつがいたら、物理的に総括してさしあげよう。

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