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Chrysler Muscle Cars The Ultimate Guide

Mike Mueller

序章:韋駄天の先祖たち

ほとんどのパワーマニアに、偉大なアメリカのマッスルカーが生まれたのはいつかと訊くと、99%はこう答える、1964年だと。もちろんそれは、ポンティアックが389ビッグブロックをそうでかくはないルマン仕様マシンに詰め込み、GTOを作り出した年だ。この俊足のマシンはこの国の自動車購入層に、真のスピードと云うものと非常識な価格とを見せつけたのだ。かつてハイパフォーマンスなどと云うものは簡単に手に入るものではなかったし、大多数の若い人々にアピールするものでもなかった。ベビーブーマー、すなわち恋煩いに罹った沢山の米軍兵士が第2次大戦後に市民生活へと戻ってきた結果、急速に人口を増やすこととなった世代は、GTOやそのいろんな後追いマシンを手に入れようにも数は足りなかった。1964年も終わりになってオールズモビルから4-4-2が登場し、翌年ビュイック・グランスポーツとシボレーSS396シェベルがデビューした。この時から潮流は流れ出し、また人々がしばしば云うように、物語となったのである。

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いやしかし、物語はもっと遡らなければならない。少なくともこれらベビーブーム世代が最初のおむつを穿くよりも数年前までにだ。馬力を出すことに関してポンティアックの人々がフェラーリの3文字モデルを捉えるまでに、デトロイトは数十年もの間忙殺されていた。つい昨日生まれたような人は別として、最初の真のマッスルカーがいつ誕生したのかを訊いたところで、返ってくる答えは悉く異なるだろう。

たぶん、ビュイックの優れた人々が、最初に5ポンドの袋に10ポンドの馬力を詰め込んだ栄誉を与えられるのだろう。それは大きなロードマスター用直列8気筒を、小さくて軽い1936年型のスペシャルボディに載せた時のことであり、それがセンチュリーである。そのセンチュリーは100mphを出せたのだろうか? 当時速度計の3桁目に指針を持って行くことが出来れば、どのくらいその速度を保てたかに関係なく、高性能車の頂点に立ったことを意味していた。そしてビュイック・センチュリーは、同時期走っていたどのくるまよりも速く、速度計の針を右っかわにすっ飛ばすことが出来た。

ビュイックは50年代に入るまで、デトロイト一のホットなかっ飛ばし屋としてわが世を謳歌したが、キャデラックとオールズモビルが1949年に、ゼネラル・モーターズ最初の高回転でショートストローク型のOHVV8エンジンでもって彼らの仲間を出し抜いた。今や160馬力で武装したキャデラックは、文句なくアメリカ一のパワフルな自動車となったのだ。一方でより軽いオールズのマシンはデトロイトで一番パワーウェイトレシオに優れたくるまであり、135馬力を発揮するロケット88がビル・フランス率いるNASCARの、完成したばかりの巨大なストックカーサーキットを熱狂させた。

オールズモビル自身は1951年、ストックカーレースでは伝説的なハドソン・ホーネットの後塵を拝した。それは奇怪なほど十分にマッチした骨董もののLヘッド直列6気筒だったが、古典的であろうとなかろうとハドソンの「ツインHパワー」6気筒は侮り難いものだった。当時を知る全てのNASCARファンに訊いてみるとよい、ハドソン・ホーネットは1954年まであらゆるレースイベントに君臨したのだ。

それからクライスラーの時代がやって来た。デトロイトのビッグ3のうち第3の会社は、1955年のNASCARを文字通り支配した。1951年以来エンジニアたちが努力してきたことを考えれば、驚くべきことではない。その年クライスラーは、ファイヤーパワーV8と云う完全新設計のOHVエンジンによって、デトロイトの馬力競争でキャデラックを追い抜いた。GMのライバルと同様、ファイヤーパワーはショートストローク型で工業界トップクラスの高圧縮率(7.5:1)を持ち、やはり同じ331立方インチという排気量だったが、ライバルのほうはあっという間に消えてしまった。

その試作品は1935年にまで遡る。クライスラーのファイヤーパワーV8は、ユニークなバルブヘッドを持っていた。すなわち半球形(ヘミスフェリカル)の燃焼室と中央に位置した点火プラグ、そして2本のロッカーシャフト上に斜めに並んだバルブトレインだ。「ヘミ」ヘッドは全く新しいものではなく、基本設計は1904年まで遡ることが出来た。しかしこの無理のない吸排気レイアウトはクライスラーの応用発明であり、結果的に人口に膾炙するニックネームとなったのだ。クライスラーのヘミV8は50年代、たちまち他のライバルたちの悩みのタネとなり、そして60年代に復活するや、ありとあらゆるマッスルカーの心臓として採用されることとなる。

まず一番になることから始まった

1951年、カタログ上では180馬力のファイヤーパワーV8は、20馬力の差をつけてキャデラックを打ち負かした。そして町なかでは、このクライスラー製の真新しいマッスルカーは人々の噂のタネであった。「ロード&トラック」誌はこう評する、「このV8のとてつもないパワーは、それ自体がクライスラーの強力なセールスポイントとなるだろう」。「その他の利点欠点に拘らず、ひとたびスロットルをくれるやボンネットの下で何かものすごい強烈な事が起こってることが判る」、と「モータートレンド」誌の編集者は感銘を受けて、カーオブザイヤー賞を1951年のクライスラー・ファイヤーパワーに与えた。同誌のグリフィス・ボーグソンに云わせれば、ヘミで武装したクライスラー車は「アメリカの自動車史が大きな一歩を踏み出した」証なのだ。

キャデラックは1952年に190馬力のV8エンジンを投入して、この高級車メーカーを一時的に馬力集団のトップに返り咲かせた。1954年になるとクライスラーが235馬力のヘミでトップを奪い返し、以降爆走を続けることになる。

1955年のV8ファイヤーパワー・スペシャルバージョンは、デューセンバーグはともかくとして、300馬力の高みに到達した最初のアメリカ製エンジンとなった。この特別なヘミエンジンは、やはり特別なモデルに搭載された。それはクライスラーにとって最初の高価で大馬力の300シリーズだった。贅沢なインペリアルのボディとホットな331cidのV8ヘミを合体させたクライスラーの数字シリーズの名は、想像の通り記念碑的な出力に由来する。公式には「C-300」と名付けられ、噂に拠れば1951年から54年までを戦ったブリッグス・カニンガムのヘミ搭載ルマンレーシングカーに敬意を表したものだと云う。それらはみな例外なく「C」の接頭辞を付けていたのだ。ほんとうのところは、最初の300シリーズに付けられた「C」の文字とは、単にクライスラーの綴りを省略しただけのものである。カニンガムとの間違った関連付けを最初に広めたのは明らかに「メカニクス・イラストレイテッド」誌の記者トム・マッカヒルであり、すぐにそれがほんとうのことだと信じられるようになった。

1956年に「300B」と命名されたクライスラーの2番目の数字シリーズが登場し、年ごとにアルファベット順に続いてゆくことになる

ローマ数字の「I」との混同を避ける為に「i」が抜けているが、クライスラーの数字シリーズの伝説は11モデルに亘って続き、1965年の300Lをもって終わりを告げた。

クライスラーの最初の数字シリーズモデルは1955年1月に姿を現し、たちまちデトロイトの野次馬たちは、真摯なスピードへの熱意と豪華な高級車との驚くべき融合に驚嘆した。クライスラーにハイパフォーマンスの名声をもたらすスポーツツーリングカーとして企図されたC-300は、その期待を裏切らなかった。販促パンフレットには「米国の最高性能自動車。疾風のようなスピード、ポロ競技馬のような機動性、安全に追い越しが出来るパワー。国内外で見出すことの出来るどんなくるまにも見られないオールアラウンドな性能」とある。更に広告ではこう謳う、「米国で一番の大出力を誇る量産車」。

明らかに大きく、重かったのにも拘らず、C-300はシボレーの新型コルベットといつでも同じくらい速く走ることができた。トム・マッカヒルによれば、「世界中で一番パワフルなセダンであり、頑丈なサスペンションと、ボブ・ファルトンの汽船をジョージ・ワシントン橋を横切って引っ張れるほどの力を持ったエンジンとのお陰で、速さも一番」とのことだ。そしてそうぶちあげたあと、彼はこう続ける。「確かにこいつはヘンリエッタ・ブラッシュボトムと云った、棒アイスをしゃぶるオールドミスの叔母さんのためのくるまではない。こいつは硬派で、準レース仕様のステキなシロモノであって、モノホンのカーキチのために作られたくるまなのだ。」

準レース仕様だって? クライスラー初の300はいとも簡単にサーキットに順応し、デイトナ・ビーチでの最初のトライで、フライングマイル127.58mphを記録した。お次はファクトリーサポートを受けたカール・キーヘイファーのマーキュリー・アウトボード・レーシングチームによる、NASCARとAAAストックカーレースの1955年シーズンの完全支配だ。このNASCARシリーズで、キーヘイファー300を駆るティム・フロックはグランナショナルレースに13連勝し、シーズン王者を勝ち取った。一方フランク・マンディの操るキーヘイファー・クライスラーは、AAAのタイトルをもたらした。1955年、クライスラー300はストックカーレースで37勝を挙げたのである。これに300BのNASCAR22勝が続き、キーヘイファー・クライスラーのバック・ベイカーは1956年の年間王者となった。

クライスラーの数字シリーズはレースから身を引いたのちもその強さを見せつけ、デトロイトで最もパワフルなくるまとして60年代まで名を残した。だが、新しい10年間はGTOに代表されるミッドサイズマッスルカーの時代となる。1964年と65年の300Kと300Lの販売成績は好調ではあったが、古くからのモータージャーナリストであるカール・ルドヴィクセンが「美しき野獣」と芳名を付けたくるまの歴史に、終止符を打つ決断がなされた。多くの人々はこんにち、はっきりとかつ単純に、C-300こそデトロイト最初のマッスルカーだと考えている。このハイパフォーマンスカーの鼻祖については、次の章でもっと詳しく語るとしよう。

C-300がマッスルカーの系譜の一番最初に来ると云えるかどうかはともかくとして、ひとつだけ確かなことがある。50年代の伝説的な馬力競争に於いて、数字シリーズモデルがクライスラーを常にリーダーたらしめたということだ。頭の回転の速いモウパアの面々はその月桂冠を戴き続けることは出来ないと考え、すぐに彼らはハイパフォーマンス市場で唯一の存在ではなくなった。つまり2番目の数字シリーズが登場した1956年、クライスラー陣営がいかに刺激性を提供すればいいのかを考えた結果として、3台の強力な仲間が加わったのだ。この年の新顔とは、デソート・ゴールデンアドベンチャラー、ダッジ・D-500、そしてプリマス・フューリーである。

1956年2月に、アドベンチャラーは粋な出で立ちに身を包んで登場した。それはプリマスのデザイナー陣がフューリーに与えたのと極めて良く似通ったデザインだった。56年型フューリー同様、56年型のアドベンチャラーはエッグシェルホワイトのエクステリアカラーに、ボディサイドとルーフ部分に金色のアクセントカラーを持っていた。金メッキはグリルとホイールカバーにも奢られていて、ユーザーの希望によってはホワイトの代わりにブラックで塗装することも出来た。

標準的なパフォーマンス仕様も盛りだくさんだった。ヘビーデューティサスペンションはもちろん、エンジンはボアアップされたデソート・ヘミV8で4バレルキャブを2連装し、チューンされたカムと9.5:1の圧縮比を持つ。排気量341cidのヘミエンジンは320馬力を絞り出し、2速のパワーフライトA/Tに動力を伝える。このメインストリートの野獣の頒価は、顧客に本物の金塊を買うのではないかと思わせるくらいのものであり、3,728ドルと云う56年型アドベンチャラー・ハードトップ仕様は、当時のデソートで一番高価なくるまだった。それは僅か996台が生産され、全て発表から6週間以内で売り切った。

すばらしい走りを見せたインディアナポリス・ペースカーのコンバーチブル仕様レプリカもまた、1956年にデソートで作られた。この「ペースセッター」コンバチはアドベンチャラー・ハードトップによく似ていたが、大部分が標準のファイヤーフライトをベースにホワイトとゴールドのエクステリアカラーで包み、デソートのより小さな255馬力330cidヘミV8(4バレルキャブ1基装)をボンネットの下に積んでいた。56年の1月11日に発表されたペースセッターは、ミダス王の一触とも云うべき内装に彩られ、ツイード生地のシートカバーはゴールドのビニール織りで、ブラックのカーペットにはゴールドの「ラレックス」斑が散らしてあった。もちろん、ステアリングホイールもゴールドとホワイトのツートーン仕上げだ。

1956年5月30日、観客は知らなかったが、2台のペースセッターがアドベンチャラーの341V8を搭載していた(1台はバックアップだ)。デソートの部門長であるL.アーヴィング・ウールソンが先導ラップのステアリングを握り、この特別なヘミエンジンを巧妙に操った。この日ウールソンは、スタート直前にこの伝説的なオーバルコースを離れる前に100mphを記録して、インディの最速ペースラップを叩き出したのである。彼の真後ろに付けていたのはポールシッターのパット・フラハーティで、第40回インディ500マイルレースを平均速度128.49mphで勝利した。

56年型ペースセッターの総生産台数は約390台と云われている。これらペースカーレプリカの全てがデソート最高峰のエンジンを積んでいた訳ではないが、実際のペースカー同様ヘビーデューティサスペンションを与えられていた。もちろんペースセッターにはパワーブレーキとパワーフライトA/Tが標準で装備され、後者はハンドルの左側ダッシュボード上にある、クライスラーの新型プッシュボタン式シフトを採用していた。1956年型ペースセッター・コンバーチブルのベース価格は3,565ドルであり、この年のデソートモデルの中で2番目に高価なものである。

アドベンチャラー・ハードトップもまたスピードではひけをとらない。60mphにはきっちり10.5秒で到達し、プラス7秒で1/4マイルを駆け抜けた。1956年2月のデイトナ・ビーチでアドベンチャラーは137mphを記録し、ミシガン州チェルシーのクライスラーテストコースでは、その最高速は144mphにまで伸びた。

1957年には345馬力までパワーを増大させた345cidヘミが標準仕様となった。この年の新型アドベンチャラー・コンバーチブルは、1,650台のクーペと300台のドロップトップが生産された。

1958年の標準仕様アドベンチャラーは345馬力のままだったが、この最後のエンジンはヘミではなくウェッジヘッドだった。排気量は361cidである。この年はたった432台のゴールド仕様が作られ、82台がコンバーチブルだった。更に巨大な381cidの、350馬力を発揮するウェッジが登場したのは1959年のことであり、これがデソートの豪華でオリジナルな限定版マッスルカー最後の年となった。最終年の生産台数はクーペが590台、コンバチが97台である。アドベンチャラーの名前は1960年にも引き継がれたが、それは最速のフラグシップモデルではなく、ありふれた一般モデルに与えられた。

プリマス・フューリーは、クライスラーの廉価版ブランドが新しいV8エンジンを投入した1年後に現れた。1955年前半のオリジナルの排気量は241cidで、すぐに260cidに拡大されたが、この「ハイファイヤー」エンジンは近代的なOHV構成で、クライスラーやデソート、ダッジが使っていたヘミヘッドの代わりに多球形の燃焼室を持っていた。この、ヘミの思想とは非対称的な設計もまた、それと同じくらいの効率のいい吸排気特性を実現し、しかも安価で簡単に作れる上にかなり軽かった。1956年、ハイファイヤーの排気量は277cidに拡大された。

プリマスの新設計V8モデルは1955年の大ニュースだった。それがようやく登場したのは1956年初めのシカゴ・オートショウである。クライスラーの2代目数字シリーズとプリマスの新型フューリーは1月10日に初お目見えし、大多数の来場者はトム・マッカヒルが「スモール300B」と呼んだ明確なホットロッドである後者を見逃さなかった。

56年型フューリー・クーペはデソート・アドベンチャラー同様、ゴールドのアクセントのついたエッグシェルホワイトで仕上げられていた。この2つのモウパアマッスルカーは同じ金メッキされたホイールカバーを持ち、そのセンター部分だけが違っている。すなわちアドベンチャラーは専用の「DeS」マークで区別され、一方プリマスは無印のままだ。

アドベンチャラー56年型は全幅に亘って金メッキされたフロントグリルを擁し、プリマスの小さな、真ん中の部分だけが金メッキされたグリルと大きな違いを見せていた。フューリーはまた、ゴールドのボンネットマスコットと、ボディ全長に亘って走る金メッキされたアルミ製の太いスピアラインに飾られており、そのゴールドカラーはアドベンチャラーのボディサイドやルーフと同様、実に優美なものだ。このフューリーのルーフは、エッグシェルホワイトのボディによくマッチした。

豪華な仕上げは内装にまで及ぶ。ブラックのカーペットと、アイキャッチの金刺繍に縁取られたブラックのシートがエッグシェルホワイトのビニール織り内装に彩りを与え、同様の素材がドアパネルにも用いられている。

ダッシュボードは唯一の例外を除いて、ベルベディアと同じエッグシェルホワイトとブラックで仕上げられていた。6,000回転まで表示するスチュアート・ワーナー製のタコメーターがステアリングコラムの右側に設置されたが、これは早速批評家たちの失望を招いた。場所が最低な上に、その小さなサイズのせいでまるで読み取れなかったからだ。おまけにいい加減なタコメーターの配置がイグニッションスイッチをステアリングポストの上に移動させることとなって、キーを捻るのにちょっとしたコツが要った。もっとも、ややこしかろうがなんだろうが、一旦キーを捻ってしまえばそんなことはみんな忘れてしまうのだが。

金ぴかの華美さの下で、野獣の心臓が脈を打つ。
プリマスのチーフエンジニア、ロバート・アンダーソンとそのスタッフは、実に良くマッチするパワーユニットの極北を目指し、誰もがそのエンジンの代わりになるものなどないことに気付くだろう。

ベルベディアの277cidV8をどんなに回したところで、同じグループ内の高性能車のスピードにフューリーはついて行けなかった。アンダーソンはたぶん、クライスラーの別の部門から、でかくて力溢れるヘミを引っ張って来ようと考えたことだろう。しかし結果的に、彼はカナダ支社が採用していた、より排気量の大きい303cid多球形燃焼室V8エンジンに目を向けることにした。

ヘミよりも軽くコンパクトで、しかもそれほど高価ではない303は、十分以上のパワーを発揮できたから、これがプリマスの「スーパーハイファイヤー」V8となった。56年型フューリーのためだけに少数が作られたこのホットなエンジンは、ゴールドで塗装されたエアクリーナーとバルブカバーで飾られている。ドーム型の8個のピストンが9.25:1の圧縮比をもたらし、コンロッドは特注のバランス取りされたもので、高回転にも耐えられるよう肉厚のバルブスプリングが採用された。このスプリングを駆動するのはごついハイリフトカムとソリッドバルブリフターだ。エンジン上部にはカーターの4バレルキャブが装着され、混合気を送り込む。そして高速デュアルブレーカーデスビが火花を散らし、2連の低排圧エクゾーストパイプが排ガスをスムーズに吐き出すのだ。その出力は240馬力である。

ノーマル仕様には10インチのボーグ&ベック製ヘビーデューティクラッチが採用され、シンクロサイレント型3速マニュアルミッションから、強化されたドライブシャフト(やはり強化されたUジョイントを持つ)を通じて車体後部の4ピニオンデフに全パワーを伝達する。ノーマルのギアレシオは3.73:1で、購入者がオプションの2速パワーフライトA/Tを選んだ場合は、よりギア比の高い3.54:1が標準とされた。このA/Tは1956年仕様では、ダッシュボードの左端に位置するプッシュボタンでシフトするものだ。

この他のフューリーの仕様としては、特別な「ポリス仕様」ライニングを装着した11インチ径の大きなダッジ用ドラムブレーキがあった。タイヤは図太い7.10x15の4プライナイロンチューブレスで、強化された「セイフティリム」に履く。サスペンションはと云うと、四隅のヘビーデューティオイルショックアブソーバーに、リアが頑丈な6枚リーフスプリング、フロントが太いアンチロールバーとスプリングレートの高いコイルで固められた。この強力なスプリングはボディのロールを防いだだけでなく、フューリーをノーマルのベルベディア・ハードトップより1インチも低く見せ、すばらしいハンドリングを実現させた。

56年型フューリーがグループ内の俊足の仲間よりも恐らく光り輝いて見えたのは、コーナーにおいてであろう。「確かに、どんなに想像を逞しくしたところで、これはスポーツカーとは云えない。しかし、これまでに試乗した国産セダンの中で、一番のハンドリング性能を持つことだけは疑問の余地がない」。そうロード&トラック誌のレビューは指摘する。直線性能はと云えば、同じくR&T誌によれば、3速のフューリーで0-60mph加速が9.0秒、1/4マイルがプラス7.6秒だ。56年当時の車重3600ポンドの6人乗りアメ車としては、いずれも驚異的な性能である。そしてR&T誌はこう締め括る。「どんなカーマニアであろうと、5分もM/Tのフューリーを走らせれば興奮に身震いせざるを得ない。」

トム・マッカヒルはそれほど夢中にならなかったにしろ、やはり興奮に身震いした口だ。「5年前に、プリマスのフルサイズカーにハイパフォーマンスを求めようものなら、拘束衣を着せられて最寄りの精神病学会に送り込まれただろう」。これでもマッカヒルが、この特別なプリマスのフル性能を目の当たりにする以前の話だ。

フューリーがシカゴでデビューを飾ったのと同じ日に、別のゴールデン・プリマスがデイトナ・ビーチで記録に挑戦していた。フィル・ウォルターズのドライブするM/T仕様フューリーは、1956年1月に2つのNASCAR公式速度記録を樹立した。キャデラックの80.428mphを上回るスタンディングマイル82.54mphと、デソートの112.295mphを超えるフライングマイル124.01mphである。

2月のNASCAR恒例スピードウィークトライアルでの記録挑戦計画は、ちょっとしたルール上の障碍に見舞われた。競技規定ではストッククラスに出場するくるまは、トライアルの最低でも90日以上前に生産された個体でなければならなかったのだ。現時点でフューリーはやっと1ヶ月経ったに過ぎず、これはプリマスがエントリーするのは、原則的に何をやってもOKのファクトリー・エクスペリメンタル(FX)クラスになることを意味した。この規定に従いウォルターズのフューリーには、300Bのヘミから流用したフルチューンのデュアルキャブレターが装着された。このチューニングによって彼はフライングマイルを、FX記録の5mphオーバーとなる143.596mphで走った。ところが2度目の試走で燃料供給不良のトラブルが発生し、平均記録は136.415mphという残念な結果に終わる。新記録達成はならなかったのだ。

しかしそんなことは大した問題ではない。フューリーは依然として1956年のアメ車で最もパワフルなマッスルカーであった。そしてそれは、3月にプリマスが「ハイパフォーマンスグループ」オプションを発表したことで更なる弾みを付ける。フューリー専用に設定されたこの高価なパッケージ(694ドルもした)は、2連装の4バレルキャブ、より過激なカムプロファイル、12インチの巨大なブレーキと15インチのワイドホイールからなる。ハイパフォーマンスグループを装着した303V8エンジンは270馬力を発揮した。6月も終わりになってこのチューニングオプションは303と277のV8双方に設定され、後者のエンジンは2連4バレルキャブのお陰で200から230馬力までパワーアップした。

「標準」仕様の56年型フューリーの価格は2,599ドルで、V8ベルベディア・スポーツクーペより約400ドル高かった。それでも高価なアドベンチャラーや4,202ドルもした300Bに比べてかなりの開きがあった訳で、プリマス部門がデソートやクライスラーブランドの何倍もの売上げを達成した理由が判る。プリマスは初年度に4,485台のフューリーを売り捌き、片や300Bクーペは1,102台だった。

プリマスは2年に亘って、内外装をゴールドでアクセント付けたフューリーを作り続けた。2連装4バレルキャブは1957年に標準となり、高級さに溢れたバックスキンベージュで塗装された。標準仕様エンジンは57年と58年に290馬力を発揮する318cidV8に代わり、58年には305馬力の350cidゴールデンコマンドーV8がオプションとして登場した。それが伝説に彩られた初代フューリーの最後の年だった。

1960年以降のデソート・アドベンチャラー同様、フューリーの名前は消え去りはせず、フルモデルチェンジして再登場する。しかしそこには金色に飾られた豪華さや、トップクラスのパフォーマンスは欠片もなく、典型的なカラフルでありふれたファミリーカーに変わっていた。59年型フューリー(2ドア、4ドア、ステーションワゴンがあった)の標準出力は、今や扱い易い230馬力となり、カーター製2バレルキャブレター1基が装着されていた。

これで終わりなのか? いいや全く! 少なくとも前任者の栄光のいくばくかは、なだらかに優美な2ドアクーペと官能的なコンバーチブルからなる、スポーツ・フューリーの中に受け継がれたのだ。この新型車のどこにも「スポーツ・フューリー」のバッヂは見当たらなかったが、ボディサイドを走る幅広いシルバー仕上げのトリムを見逃してはならない。新たな魅力として車体後部の「スポーツデッキリッドタイヤカバー」、興味深い回転式のバケットシートと、ダッシュボードに個別プレートが標準で装備された。このダッシュの特別なプレートは全世界に向けてこう誇示する、「プリマスが(購入者の名前がここに入る)のため特別に仕立てた」59年型スポーツ・フューリーだと。

「スーパーパック装着フューリーV-800」を搭載する、ノーマルのスポーツ・フューリーの出力は260馬力。圧縮比9:1の318cidで、ハイリフトカムとカーターAFBシングルキャブ、それに低抵抗デュアルエキゾーストを持っていた。これではドリームカーには十分ではないと云う向きには、オプションで「ゴールデンコマンドー395」V8エンジンが用意された。巨大な361cidの野獣は305馬力を絞り出し、バルブカバーとエアクリーナーはゴールド塗装で仕上げられた。ゴールデンコマンドー395の圧縮比は10:1、最低でもカーター4バレルキャブを1基装着する。

悲しいかな、57年と58年のフューリーを燃え立たせたカーターデュアルキャブは、少なくとも公式オプションリストで見る限り1959年には用意されなかった。だがいくらかの「売れ残り」が59年の初め頃ほぼ確実にディーラーで装着され、いみじくも「スーパーゴールデンコマンドー」V8と命名された。この仕様は恐らく10台かそこらが知られている。

ホットカーのファンは、GTOが1964年に登場するまでの間と云うもの、デトロイトからプリマスの初代フューリーに僅かにでも似た種類のくるまが供されるのを見ることは叶わないだろう。手頃で手に入れ易く、大衆受けするマッスルカーと云う点で、クライスラーC-300がGTOを凌駕すると云うにはかなり無理があった。初代数字シリーズモデルは正真正銘のマッスルカーではないとは云えないにしろ、とにかくべらぼうに高価すぎて、上流社会層向きになりがちだったのだ。一方フューリーは高価にはほど遠く、それは手頃であると云う訳ではないが、かと云って破産させるようなものでもなかった。平均的な米国人でも楽に入手できるくるまがプリマスであり、9年後のGTOもまったく同じことだった。それゆえ1956年のプリマス・フューリーこそがアメリカで最初のマッスルカーであると云える──かどうかはあなた次第だ。

プリマスの初代フューリーや初代デソート・アドベンチャラーに対し、ダッジの50年代高性能車市場への参入は、バルブヘッドを金メッキするような手間も惜しんで行われた。あからさまなサブモデルの代わりに設定された、決して厄体もないとは云えないオプションモデルD-500は、追い越し車線を快適に飛ばしたいドライバーに必要なものすべてを詰め込んでいた。すなわちボンネットの下にあり余るほどのパワーユニットを、そのパワーを受け止めるのに十分なほど強化されたドライブトレインをだ。

D-500の突出した唯一無二の特徴はエンジンにある。1956年に作られた315cidのヘミは、270cidのダッジ・レッドラムV8をベースにストロークを伸張したもので、ダッジD-500だけがこの260馬力を発揮する特別製315ヘミを享受できた。高い圧縮比(「普通の」ヘミが8.0:1であるのに対し9.25:1)、デュアルバルブスプリング(ノーマルはシングル)と大径化されたバルブ(インテーク1.87インチ、エクゾースト1.53インチ)、そして適度に過激なソリッドバルブリフターとカムが大馬力を発生させる。1基のカーター4バレルキャブが混合気を送り込み、2インチ径のデュアルエキゾーストパイプが燃焼ガスを吐き出すのだ。

新しくプッシュボタン式シフターが採用されたダッジ2速パワーフライトA/Tが標準仕様であり、オーバードライブ付きか無しの3速M/Tがオプションで用意された。リアではヘビーデューティアクスルシャフトが3種類のギアレシオから選べるデフに繋がり、そのギア比は低いもので4.10:1である。このギア比ではロードテストで56年型D-500を0-60mph加速8秒台に乗せることが出来る、当時としてはホットなものだった。

シャシーもより大きなブレーキと、丈夫で低いサスペンションでグレードアップされた。短めのヘビーデューティコイルがフロントを支え、リアの5枚から6枚に増やされた頑丈なリーフスプリングによって全高は約1.5インチほど低くなった。硬めのショックアブソーバーと特製緩衝器付きの太いフロントスタビライザーも追加され、15x5.5サイズのホイールと肉厚のステアリングアームとナックルも採用されている。D-500の装備品リストの締め括りとして、2.5インチ幅のブレーキシューを持つ、大きな12インチ径の平たいクライスラー製ブレーキがあった。56年型ダッジ車のノーマルブレーキは11インチ径のドラム、2インチ幅のシューである。

D-500のオプションが公表されたのは1955年12月22日のことだ。外観の識別点は、ボンネットおよびリアデッキに付けられたクロスフラッグと「500」のエンブレムのみ。そこに目を引く特徴的なトリムはなく、高級感を醸し出す特別色もなかった。オリエンタルコーラルとサファイアホワイトのツートーン仕上げがリストに「例示」されていたが、単色でも他のツートーンでも注文できた。

当初ダッジ部門は、明らかにD-500を300Bやアドベンチャラー、フューリーと同じような路線で売ることに興味を抱いていた。ファクトリーの覚え書きでは数回に亘ってそうすべきだと言及されていたが、オプションパッケージとしてのみのD-500は失望させられるものに終わった。初期にはD-500オプションは限られた車種にしか適用されず、それはカスタム・ロイヤル・ハードトップとコンバーチブル、それにちょっと軽いコロネット・セダンだけだった。コンバーチブルのコロネットも候補に挙がっていたが、ダッジがD-500パッケージをコンバチコロネットユーザーにも間口を拡げた1956年に、NASCARがドロップトップクラスを設けたのは偶然の一致ではない。ドロップトップのD-500ダッジは、1956年のストックカーレースで47戦中9勝を挙げたのだ。

広告では、D-500は「スタンダードモデルのわずか100ドルプラスでしかない」と謳っていたものの、実際の価格はロイヤルとロイヤルカスタムの175ドル増し、コロネットには215ドル以上を必要とした。しかし1956年3月2日には全てが変わった。ダッジ部門は限定適用政策を180度転換し、D-500オプションは4ドアとステーションワゴンを含む全てのダッジ車に適用されるとアナウンスした。これは警察当局と行政府からのパワフルなパトカーおよび緊急車輛の要望に応えたものだ。

このアナウンスから1週間後、今度はD-500パッケージの内容をV8ダッジ車に対し、個別に供給する旨が発表された。これによりコロネットユーザーは86ドルで260馬力の315ヘミを選択することが出来、ロイヤルもしくはカスタム・ロイヤルへのD-500用V8は63ドルまで値下げされた。デュアルエクゾーストはカスタム・ロイヤルに標準装備となり、コロネットには18ドルで提供された。さらにD-500用ビッグブレーキキットは27ドルでベーシックモデルに追加されたが、一方で非装着にすることも出来た。ダッジが「D-500スペシャル」と呼んだより一般向けのモデルには、車高短のヘビーデューティサスペンションは見送られた。これは顧客からのクレームによるものだろう。元々のD-500は振動がひどく、ダッジの設計陣はオプションパッケージを多少マイルドにすることにしたのだ。

これらの反面、より過激なD-500-1オプションが1956年1月に導入されていた。この426ドルもするオプションは、10.0:1の更に高い圧縮比と図太いエクゾースト、それに2基のカーター4バレルキャブを装着する新型インマニからなり、295馬力を絞り出した。もちろん足回りは更に強化されている。ダッジの経営陣は、一般的な顧客がD-500-1パッケージをどう思うかなんて気にもかけていなかった。これは街乗り用なんかではなく、サーキット向けであった。

1956年の生産台数は判然としないが、大凡500台から56年のダッジ総生産台数(24万台)の5パーセント未満までの間というところだろう。D-500-1市販レーサーは、大雑把な推測では100台前後が作られたと見られている。

ダッジの56年広告には、D-500は「正真正銘の爆弾カー」とある。「D-500はジャックウサギみたいにカッ飛んでく」、とキャッチコピーは続ける。「ラリーカーみたいに路面を捉え、軋みひとつなくカーブを曲がる、珠玉の操縦性」。初代D-500は赴くところ、デイトナやボンネビルでだってコースレコードを叩き出した。

1957年、D-500オプションは刷新され、今度はカーター4バレルキャブ1基装の325ヘミが285馬力を発揮した。この新しいD-500用エンジンを「スポーツカー・イラストレイテッド」誌はこう語る、「吹かしきれないほど大きくもなく、トルクが足りなくなるほど小さくもない、バランスの取れたエンジンだ。どんな道にも見合ったパワーを発揮してくれるだろう」。57年型D-500の0-60mph加速は8.5秒、1/4マイルをトップスピード83mph、16.6秒で駆け抜けた。

それと同じくらいワイルドな走りを見せたのが、D-501ダッジである。このくるまはNASCARレース用に細心の注意を払って特別に仕立て上げられた。この怪物のパワーユニットはクライスラー300用工場から持ってきた354cidヘミで、デュアルキャブレターから340馬力を発揮する。D-501のコンポーネンツは悉く強化され、足には8インチ幅のホイールを履いていた。何台が製作されたのかは判らないが、この血統を引く同タイプのくるまが1957年に100台前後作られたと信じられている。

続く年には2種類のストリート仕様が用意された。ノーマルのD-500は305馬力のシングルキャブ361cidウェッジヘッドV8を積み、スーパーD-500はデュアル4バレルから320馬力を発揮した。同じく333馬力のインジェクション仕様361もリストアップされたが、ツインキャブインテークが採用されたために、このベンディクス社製燃料噴射装置は陽の目を見ることはなかった。引き続き1959年には、D-500用の361がダッジ製のビッグブロック383ウェッジに取って代わられた。この年の標準出力は、再び採用されたシングルキャブによる320馬力である。スーパーD-500の383は、2基のカーター製キャブレターから345馬力を発揮した。

ダッジはD-500の名称を1961年まで使用したが、最後は単なるエンジンオプションの名前でしかなかった。3年後、ポンティアックがアメリカ製マッスルカーを「発明」し、56年型D-500のようなハイパフォーマンスカーの先駆者は歴史の彼方に忘れ去られた。300シリーズやアドベンチャラー、フューリーもまた同じ運命を辿った。

彼らが忘却の淵に沈んで行ったのは、その経歴が割合いに短く(300シリーズは別だが)、あまりに衝撃的であったからにほかならない。

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