崇徳天皇 京都編

粟田宮



保元の乱の合戦場跡に、寿永2年(1183)、後白河法皇の命で創建された神社。保元の乱の戦没者、特に源為義、為朝らの霊を慰める為に建立された。
なお、この年、瀬戸内に没したと云われていた五部大乗経が、上皇の末子元性法親王の所持するところとなっていたことが判明。


白河北殿



保元の乱で上皇の本営があった御所の一つだが、後白河天皇の東三条殿と同様、現存しない。
この近く、鴨川の東に広がるいわゆる白河扇状地に、崇徳帝の御願寺成勝寺があり、呪われた五部大乗経がすでに都に入っている事実に驚愕した朝廷は、急ぎ菩提を弔うべく法会を催すが、安徳帝が壇ノ浦に崩じた元暦2年(1185)、7月9日から8月12日にかけての京師大地震により、成勝寺ほか六勝寺はすべて倒壊する。これらはのちに再建されるも、数度の戦乱と災害に被害を受け、今では地名と石碑のほかに偲ぶよすがはない。崇徳、安徳(この時点ではまだ先の帝で追号はないが)両帝の神威を畏れた朝廷は、この年9月、元号を文治と改元する。
なお、六勝寺とは、成勝寺のほかに、天皇御願寺の法勝寺(白河)、尊勝寺(堀河)、最勝寺(鳥羽)、延勝寺(近衛)と、待賢門院の御願寺円勝寺の総称である。


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