天皇家を呪詛し、配所に崩じた上皇の神威が史書の記述に現れるのはそう遅いことではない。桓武、醍醐の昔から朝廷が畏れたのは不遇に死した人々の御霊であり、平安末期の乱世を切り抜けた後白河帝も、やはり上皇の御霊を畏れた。頓証寺殿、粟田宮の建立はその証であり、また例外的に院に諡号が贈られたことにも現れている。
その思想は明治に入ってからも変わらなかった。なにゆえに明治大帝は即位の前日に白峯御陵に勅使を派遣したのか、また改元の2日前に白峯宮の鎮座祭を行ったのか。大帝の父、孝明帝*は、白峯御陵700年式年祭の年前後の内憂外患(文治元年1864に限っても、禁門の変、長州征討、四国艦隊下関砲撃事件が出来している)に、崇徳院京都御遷還幸を企図して天然痘に斃れ、大帝即位式は戊辰戦争のさなか、まさに東武皇帝*を戴く奥羽越列藩同盟との内戦中に挙行されたのだ。そしてまた大正11年11月20日、一地方社に過ぎない高屋神社は時の摂政宮迪宮殿下、つまり後の昭和天皇の御臨幸に浴している。
時代は下って香川県下が大旱魃に見舞われた昭和39年(1964)の初秋、9月21日。
この日、白峯御陵800年式年祭が午前中の雷雨の過ぎたあと、高松宮殿下、天皇勅使、宮内庁役人の参列の下に執り行われた。その半日前、すなわち21日午前零時、雲井御所から北に500メートル離れた林田小学校が、原因不明の出火で全焼したのである。
山陵誌崇徳陵の項に蒲生君平はこう記す。
「ああ、また異とせんや。僻陬に陵寝あり。その生くるや、かつてこの土に幽辱せられしことあるも、死するや、長く霊威をあらわし、祭にはすなわち福を授く。これを他の荒廃に就くに比すれば、幸というべし」