崇徳天皇
雲井御所跡
綾川から東へ100メートル入った道の脇にある。
保元元年(1156)7月末、白河北殿の夜戦に敗北した上皇の最初の配流先である。讃岐の地方豪族綾高遠の館跡と伝えられるが、石碑の建った江戸年間にはすでにその正確な所在は明らかでなく、遺徳を偲んだ高松藩主松平頼恕公が資料を元に同定したのがこの場所である。別には上皇は長命寺に行宮したとも云われ、現長命寺橋を少し西に入った堤の脇に石碑が建っている。長命寺自体は長曽我部の乱に焼失し、今はない。

雄山(左)と雌山(右)の間、手前よりの松山津に上皇は到着した
保元物語によれば、讃岐に流された上皇の行宮は、瀬戸内に浮かぶ直島に設営される予定であったが、7月末時点でその仮御所は未完成であったため、ここ讃岐の松山の津に上陸、綾家の御堂に行宮された。
その後、直島に遷幸されたという確証はないが、同島には崇徳天皇神社を始めとする いくつかの史跡がある。


雲井御所の名は、上皇がこの地で詠まれた歌に由来する。
    ここもまたあらぬ雲井となりにけり
    空ゆく月のかげにまかせて
雲井(雲居)とはもちろん御所の美称である。

上皇はここに3年の間留まり、かの納経事件ののち、
内陸の府中鼓ヶ丘御所に遷幸された。

雲井御所跡全景


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