ESSAI
depuis le 21 septembre 1998

    翻訳文学について

     わたくしはもともとが翻訳文学から文学青年崩れの街道をつっぱしったので、原書で読んでいてこれはと思うものは日本語に訳し下ろしてしまいたくなる。意に叶う翻訳が世に出ていればそんな手間はとらないし、まったく翻訳の出ていない本もほとんど読まないのでそうそう頭をもたげる欲望ではないが、ときどき、というか最近とみに、いったい原文はどうなってるんだと叫びたくなるようなひどい翻訳を多く見る。いや、翻訳が変なのではない。日本語が変なのだ。外国語読解力はなるほど大したものなのかもしれない。しかしそれを和文に再構築するや、その低能ぶりは原文の格調も為体もいっしょくたに吹き飛ばして新たな秩序(無秩序?)体系を築き上げるのかと思うくらい、徹底してサイアクだ。こうゆう手合いに出くわすと(ほんと最近多いが)どたまに血の昇りやすいわたくしめとしては、これが正しい日本語だと云わんばかりに訳してみたくなるのである。
     ちなみにここで微妙に問題になるのは、翻訳文学において原文の文体をどう再現するか、ということだが、文学上の文体と言語学上の文法をごたまぜにする輩が多いのにはあきれかえる。例えばラヴクラフトLovecraft, H.P.の小説は、創元推理文庫版(第3巻以降、大瀧啓裕訳)とその他の翻訳とでは雲泥の差が見受けられる。原文は至って平易な単語をだらだらとつないだ割合に悪文であることを考えると、大瀧の凝った翻訳はやり過ぎにも感じられ、むしろ定本ラヴクラフト全集(国書刊行会)などに収録された翻訳のほうが原文に忠実だとも思われる。だが、これこそが単なる翻訳と翻訳文学との差異なのだ。わたくしは先に、和文に再構築する、と書いた。これは右(原語)から左(日本語)へただ置き直すことの謂いではない。その原文の有つ文学的価値──あるいは文学上の位置と云っても良い──を日本語で書かれたテクストの上に改めて付与する行為を意味している。すなわち結果としてそれはそれ自体として文学たらねばならず、言語学的に忠実な翻訳が原文のもたらす効果を減殺する部分があったとすれば、不忠を働いても一向差し支えないのだ。ではどこまでが翻訳文学として許され、どこからが翻案になってしまうのか。この境界はある意味曖昧で朦朧としている。一歩踏み込みすぎると涙香ものになる怖れもある(涙香ものが悪いと云っているのではない)。不肖わたくしはいまそれを明示するすべを持たない。ひとつ確言できることは、そこに彼が翻訳家なのか翻訳文学者なのかの違いが現れるということであろう。

     ポオPoe, E.A.の絶唱と云えば「大鴉The Raven」であるのに異論はないが、わたくしが昔から好きだったのは「アナベル・リイANNABEL LEE」と「ウラルームUlalume」だった。ウラルームは先にも挙げたラヴクラフトの「狂気の山脈にてAt the Mountains of Madness」に一節がかいま見え、その調子がひどく印象的だったので遡ってポオに触れることとなった(もひとつ、「ナンタケット島出身アーサー・ゴードン・ピムの物語The History of Arthur Gordon Pim from Numtaquette」もそうだ)。だから世のポオ好きとは違う経路を辿ったような気もするが、それも文学青年が崩れる遠因であろう。アナベル・リイを気に入ったのは原詩を読んでからで、それ以前に目にしていた日本語訳というと、残念ながら日夏耿之介を別とすれば、これとわたくしのこころを撃つものが見あたらなかった。
     かくて5年くらい前にてすさびに訳したものを手直ししてみた。まったくの古語雅語に落とし込まなかったのは日夏の名訳があるからだ。形式としてはひどく古典的な詞はこびだが、原詩が韻律詩なのだし諒とせられたい。

     サキSakiは本名をヘクタア・ヒュウ・マンロオHector Hugh Manroeと云う。掌編好きのくせにオオ・ヘンリO.Henryとせいぜい星新一くらいしか知らないで、サキを知らないのは浅はかなモグリだと罵倒しても差し支えないくらいである。正しく海彼の掌編名手と云えばほかにアレエAllaisやクロスCross、ビアスBierceやボルヘスBorjesなど挙げればきりがないのだが、とりあえずは措いておく。
     この詩は「ウェストミンスター・アリス〜大英帝国中枢への旅〜Westminster Alice, A Journey into the British Empire」の劈頭に掲げられた題詩である。本編はサキには珍しい長編だ。そのせいかあまり纏まりが良くない。しかし日本語訳が出ていない最大の理由は別にあって、本編が当時のイギリス政界を揶揄した作品のため、背景を知らないと何が皮肉で何があてこすりなのかさっぱり判らんということだ。サキのもう一つの長編というか劇作も「独帝降臨William Came」と云って、20世紀初頭の一触即発の欧州政治背景が判らんことにはまるで笑えない。それも良かろう、彼の真骨頂はその掌編にこそあるのだから。

    ANNABEL LEE, -Poe,E.A.
    Westminster Alice, -Saki

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