白峯寺の北西、稚児ヶ嶽の上にあり、明治に到るまで参道はついていなかった。明治の神仏分離に伴い、参道が新たに建設され、それまで頓証寺殿側にあった松平公寄進の石灯篭も配置替えされた。
形は方墳。御陵の例に倣い、全面および周囲を杉、松の巨木で覆われる。黒木鳥居と石灯篭の立つ上2段には玉砂利が敷き詰められ、常に見事に掃き清められている。その玉砂利を見る度に、仁安2年(1167)10月に
西行が上皇の御霊を慰めに来て詠んだ歌を、想起せずにはいられないだろう。
よしや君昔の玉の床とても
かからん後は何にかはせん
上田秋成の
雨月物語集中
白峯で西行と上皇のかけあいに使われた歌は、すべて
山家集から採られている。上皇の御霊が西行に歌いかけた、
松山の浪に流れて来し船の
やがて空しくなりにけるかな
もやはり西行の歌である。
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崇徳天皇白峯御陵 |
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治承元年(1177)、この年妖星の出現、鹿ヶ谷事件、僧兵の荒掠、天然痘の流行と、度重なる異変に讃岐院の神威を見た朝廷は、8月4日、院に
崇徳の
諡号*を追贈した。宇多帝より後桃園帝に到る約一千年の間、諡号は停止されていたが(醍醐や鳥羽は院号である)、この間、僅かに4人の天皇に諡号が贈られている。即ち、崇徳、安徳、顕徳、順徳の4帝であり、全て徳の一字を有することに注意されたい。そしてこれら4帝の非命は、歴史が示す通りである(順に讃岐遠流、西海入水、隠岐遠流、佐渡遠流)。ちなみに顕徳帝はのちに後鳥羽と改号されている。
蒲生君平の著
山陵誌に曰く、
「それ諡を停めるに説あり。かならず臣は、あえて君を議せず、子は、あえて父を議せずといいて、諱むところありというに似たり。天子の尊をもつて天皇といわず、これ果たしてなんの意あるや。ああ、大典を闕き、国体を損う、これより大なるはなし。源親房、もつて臣子の道にあらずとなす。その言当たれり。後世諡を奉り、崇徳といい、安徳といい、順徳というは、僅かにこれのみ。
後鳥羽、その初め謙徳(ママ)と諡し、後嵯峨、極に登るにおよびて、すなわち今の号に改む」
君平が引く源親房、つまり北畠親房の
神皇正統記には、
「此御門(冷泉院)より天皇の号を申さず。又宇多より後、諡をたてまつらず。遺詔ありて国忌、山陵をおかれざることは君父のかしこき道なれど、尊号をとどめらるることは臣子の義にあらず。神武以来の御号も皆後代の定なり。持統・元明より以来避位或は出家の君も諡をたてまつる。天皇とのみこそ申しめれ。中古の先賢の義なれども心をえぬことに侍なり」
とある。
天皇号*と諡号が復活したのは第119代
光格天皇からであり、冷泉帝から後桃園帝までの
院号*で呼ばれていた歴代帝を何某天皇と称するようになったのは、実に大正14年からだ。
余談だが、暗殺説に基づいてか、ここ白峯陵に紫の衣服で上ると、良くないことが起こると云われる。かの三木近安が、暗殺の折りに紫の手綱をつけた馬を走らせたからだと云う。当然ながら、三木姓の人間も上ってはいけない。