崇徳天皇
綾松山白峯寺


四国八十八カ所第81番札所。弘仁6年弘法大師開基。
長寛2年(1164)9月、勅命により崇徳上皇の火葬がここで営まれ、遺骨は白峯寺北西、稚児ヶ嶽の絶壁上に築かれた御陵に埋葬された。明治に到るまで上皇の法要はここ白峯寺で行われ、御陵自体も直接に奉拝することはかなわないようになっていた。

頓証寺殿拝殿
建久2年(1191)、上皇の神威を畏れた後白河法皇は、鎮魂のため御陵前に頓証寺殿と呼ばれる紫宸殿を模した建物を築かせる。
この頓証寺殿の楼門(扁額門)に掲げられている扁額は後小松天皇の宸筆であり、同帝が南北合一直後の天皇であることを考えると、その行為は非常に興味深い。
明治元年、正確には慶応4年8月26日、当今天皇睦仁の勅使正四位大納言中院道規卿らが白峯御陵を奉拝、崇徳上皇の京都への還幸を願う宣命を奏上する。翌日、上皇愛用の笙1管と、宸筆と伝えられる肖像画1幅が、笙楽の流れる中、白峯山を下山、一路京都をめざした。空は、前日の大荒れの天気とうって変わって、快晴であったという。そしてこの日、京都御所では、睦仁天皇、すなわち明治大帝の即位式が行われていた。
頓証寺殿の後小松帝宸筆の扁額

玉章木。原木は昭和46年枯死、今見るのは2代目
頓証寺殿の前庭には、鼓岡神社と同じく右近の橘、左近の櫻があり、また、扁額門の前には玉章木とよばれる欅がある。ほととぎすの歌をきいて上皇の心中を察したほととぎすは、この木の葉を含んで鳴くようになった。その葉がちょうど手紙(たまづさ)のように丸まったことから、こう呼ばれる。
玉章はまた恋文の雅称でもあることから、この葉を懐中に携えると、恋が叶うという俗信がある。小倉百人一首にも採られた上皇の有名な歌、

    瀬をはやみ岩にせかかる瀧川の
    割れても末にあはむとぞ思ふ
が思い出されるが、事実、詞華集中を始めとして上皇の遺された歌には恋歌に比定されるものが多い。しかしながら、この歌に関しては別の解釈もしてみたくなるのが、情というものだろうか。


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